夜、ドキドキしながら千尋が店から出てくるのを待つ。「あの……」千尋が声をかけてきた!僕は千尋の方を振り向く。「ひょっとしてこのお店で働く原さんのお友達ですか? もうすぐ原さん、出てくると思いますけど、呼んできましょうか?」ああ……ついに千尋が人間の姿になった僕に話しかけてくれた。どうしよう、余りにも嬉しすぎて言葉にならない。僕が黙っているからか、更に千尋が話しかけてきた。「……あの、どうされましたか?」どうしよう、嬉しすぎて言葉にならない。でも、何か話さないと怪しまれる。けれど、最初に口をついて出てきた言葉がこれだった。「会えた……」「え?」戸惑う千尋。「やっと、君に会う事が出来た。……千尋」ようやく僕は千尋と再会することが出来た――**** 驚くほど素直に千尋は僕の話を信じてくれた。あんまり簡単に人を信じるのもどうかと思うけど、そこが彼女の素晴らしい所だから、まあいいか。これからは僕がずっと一緒にいることになる訳だから、僕が気にかければいいんだし。 人間の姿になって千尋と何かを一緒にするのはこの上なく新鮮で、楽しかった。何より彼女の側を並んで歩ける。手を伸ばせば届く距離にいる。何度その手を伸ばして繋ぎたいって思ったか。でもそんなことをして怖がらせたくないから、我慢しないと。 渚の身体になってから良いことがある。それは彼が料理が得意だってこと。何であんな店で働いていたんだろう? こんなに素晴らしい料理の腕前を持っているんだから、お店でシェフとして働くことが出来るのに。千尋の為に料理を作る、喜ぶ顔を見るのは本当に幸せを感じる。口には出さないけど、全身で千尋が好きだよってアピールをする。千尋も僕の気持ちに気が付いてくれているのか、徐々に心を開いてきてくれている気がする。でも、もっと二人の距離を縮めたいな。だって前世では僕たちは恋人同士で結婚の約束をしていたんだから。 そうそう、一度だけこんなことがあった。仕事に行く千尋を見送った時のことだ。白い犬を散歩させている場面に出くわした時に千尋が僕、ヤマトのことを話してくれた。千尋、まだ僕が何処かで生きているって信じているんだね。騙してる僕をどうか許してほしい。でも、今も忘れないでいてくれているのを嬉しいって思う自分もいた。 千尋と暮らし始めて数日が経過して、大分打ち解けてく
僕はこの男と魂が一体化した。そのお陰か、彼の全てが全部手に取るように分かった。名前は間宮渚。23歳で調理師免許を持っているけど、今はぼったくりをするような如何わしい店でホールの仕事やバーテン、時には恐喝まがいのような仕事をしている。そして自分が恋人と思っていた女性に酷い裏切り行為を受けた。全てを奪われた精神的ショックで目が見えなくなり、自殺をしようと思って大量に風邪薬や咳止めを摂取したこと……それら全てを。でも僕が予想していた通り、目は正常に見える。やっぱり医者が言ってた通り、目の神経に異常は無かったみたいだ。 今の僕は彼なのだから、何処に何があるのかちゃんと分かっている。この部屋は渚が偽名で借りたウィークリーマンション、そして身分証明書は上着のポケットに入っている。全財産は今のところ約10万円。僕はこれらを利用して、何とか千尋に近づく手段を考えた。 まず最初に行ったのは公衆電話からの通報。若い男性がマンションの一室で倒れている事を匿名で警察に通報した。きっと、警察の方が何とかしてくれるだろう。次に住むところ。今日の所はネットカフェに泊まることにして、そこで住み込みの求人が無いか検索してみよう。 僕——間宮渚はこうして着実に千尋と再び一緒に暮らせる計画を考え始めた。僕の計画はこうだ。まずは働いてお金を貯める。そしてそのお金を持って千尋の元へ行き、でっちあげた身の上話を千尋に話す。こればかりは千尋を騙すようで非常に心が苦しかったけど、そうでもしないときっと千尋は家に上げてくれることすらしてくれないと思うから。この身の上話だって寝る間も惜しんで考えたんだもの。きっと心優しい千尋なら信じて僕を受け入れてくれるはず。その為には一度だけ、千尋の留守中にあるものを取って来なくちゃ……。 行動に移す前日の夜、僕はどうしても我慢できなくて千尋の家に行ってしまった。家の明かりが全て消える。「千尋、やっと君に会える日が来たよ。でもいきなり君を尋ねちゃうと、きっと怖がらせてしまうだろうから明日、会いに行くよ。お休み、千尋。君が素敵な夢を見れますように……」そっと呟いた——****——翌朝千尋が出勤するのを陰から伺い、辺りに気を配りながら誰もいない事を確認すると家の門をくぐった。目的は家の鍵を使って中に入ることだ。実は千尋の家ではいざという時の為に
「ウウ~ッ!」歩道橋迄駆け上り、低い唸り声をあげて追い詰める僕。その時だ。「ヒイイ! ば、化け物!」男が僕を見て叫んだ。化け物? この僕が? でも僕の全身から赤い炎のようなものがユラユラ揺れているのが見えた。まさに炎をまとった化け物だ。「や、やめろ! 来るなああーっ!!」男は絶叫すると足を踏み外し真っ逆さまに階段から転げ落ちた。僕は上から見た男の様子を見ると不自然に手足が折れ曲り、地面にゆっくりと赤い血が流れだしてくるのが分かった。「キャーッ!!」「大変だ! 人が落ちたぞ!!」下では大騒ぎになっている。誰かが歩道橋の上にいる僕を指さした。「あの犬だ!あの犬がこの男性を突き落としたんだ!」「保健所に連絡だ! 捕まえないと!」このままではまずい。千尋と引き離されてしまう。僕は反対側の歩道橋を駆け下りて必死で走った。捕まったら駄目だ! 滅茶苦茶に走った、その時―― 目の前に眩しい光と共に1台の車が突っ込んできた。ドンッ!!激しい衝撃が僕を襲った。身体が宙を舞い、地面に叩きつけられた。余りの痛みに全身が悲鳴を上げている。倒れた僕の周りに人々が集まってきた。僕を轢いたらしい、車の運転手が車から降りて来るのが分かった。「あの……突然犬が飛び出してきてしまって、ついうっかり轢いてしまいました」集まっている人達に説明しているようだ。「いや、いいんだ。この犬はさっき人間を襲ってたんだよ」「いずれにせよ、保健所に連れて行かれて殺処分されてただろうさ」「とりあえず、保健所に通報するか……」段々人々の声が遠くなっていく。 ああ……僕はまた死んでしまうのだろうか。千尋を残して……。 その時、自分の身体から魂が抜けだすのを感じた。いつの間にか僕は空中を漂い、血まみれになって倒れている僕自身を見下ろしていた。嫌だ、このまま千尋と会えないまま死ぬなんて。せめて千尋を一目見てからこの世を去りたい。 僕はフワフワ漂いながら千尋の家を目指した。その時——同じようにフワフワと漂っている魂を発見した。僕は急いでそこへ向かって飛んでいくと、その魂はあるマンションの一室から糸の付いた風船のように浮かんでいた。迷わずその部屋に入ってみる。すると一人の若い男性が横たわっていた。部屋の中は何も無く、ただ側には空き瓶が転がっているだけ。まだ彼の身体と魂はかろうじ
この日、千尋は独りぼっちになってしまった。僕を抱きしめて泣く千尋。ああ……僕に君を抱きしめてあげられる腕があったらどんなに良かったか。だから代わりに千尋の顔を舐めた。大丈夫。僕は何があっても君を一人になんかさせないよ。千尋は泣き笑いの笑顔を浮かべた。「ああ、そうだったね。私にはヤマトがいるものね。独りぼっちじゃなかったんだ。ありがとう、ヤマト」そうだよ、千尋には僕がいる。絶対一人になんかさせないよ——**** この日を境に、僕は片時も千尋の側から離れないように努めた。仕事先の花屋は勿論、新しくお花を飾る仕事が始まった病院にも付いて行くようになった。僕はいつの間にかここの病院の人達に気にいられて、セラピードッグにさせられていた。でも人の相手をするのはちっとも苦じゃない。何より千尋が一緒だからね。 そう言えば、ここで働いている一人の若い男性が、どうも千尋に好意を持っているみたいだ。僕なら、好きなら好きってはっきり言うのにどうしていつまでも告白しないんだろう? 言葉にしないと想いは伝わらないと思うんだけどな?彼はお年寄りの人達に人気があるから決して悪い男じゃないと思う。それに嫌なオーラもまとっていないし。 けれどもそれと同時に僕がこの病院に通うようになって、嫌なオーラを持つ人物を発見した。それは自動販売機の飲み物の入れ替え作業を行っている男だ。この男のまとっているオーラが尋常じゃない。黒くてまがまがしいオーラだ。いつも千尋の事を横目で嘗め回すように見ている。やめろ、千尋をそんな目で見るなんて僕は絶対許さないぞ。 **** 徐々にあの男が千尋に触手を伸ばすように迫ってきた。大量の青い薔薇に不気味なメッセージを送りつけて千尋を怖がらせるし、ポストには奇妙な物を投函してくる。最低な男だ。千尋や店長さんはまだ相手が誰だか分かっていないけど、僕には誰がこんな真似をしているのか全てお見通しだった。僕に人の言葉をしゃべれる口があったなら、犯人はこの男ですって言えるのに。だから僕に出来るのは一つだけ。全力で千尋を守る。あの男のまとうオーラは益々闇が深くなっていく。近いうちに何か千尋にしかけてくるかもしれない。用心しておかないと……。 数日後、ついに恐れていたことが起きた。あの男が千尋の家に直に上がり込んできたのだ。やめろ! 千尋に近づくな!僕は低
僕が今生きている国は、間違いなく日本みたいだ。あれからどの位の時間が経ったんだろう。世の中はあの時代とは比べ物にならない位、便利で平和な時代になっていた。 あぁ……今の時代で、千尋と同じ人間として側にいられたらどんなに良かっただろう。時々、僕はそんな欲深い考えが浮かんでしまう。僕は罪人。あの武士を殺し、咲を死に追いやってしまった張本人だというのに。だからこれ以上高望みはしてはいけないんだ。だって犬の姿になってしまっても今は千尋の側にいられるのだから。 でも、この身体になって一つ良いことを発見した。それは、その人物の持っている魂? のようなものがオーラとなって身にまとわりついてるのが見えるようになったこと。例えば素晴らしく善人のオーラは金色に輝き、悪人のオーラはどす黒いものや、もしくは濃いグレーのようなものがまとわりついている。その人の心が良ければ良いほど光は輝き、逆に悪い心であればあるほど、まがまがしいオーラを身にまとっている。この力さえあれば悪い人間を察知して千尋を守ってあげる事が出来るかもしれない。勿論、千尋や幸男さんは善人のオーラの持ち主だったけどね。 千尋は両親を亡くして、幸男さんとの二人暮らしだった。小さい時から家事をやっていたのだろう、千尋はすごく料理が上手だった。きっと将来は良いお嫁さんになるだろうな。……出来れば僕のお嫁さんになって貰いたかったけれど、それは絶対無理な話。だって僕は犬で千尋は人間なのだから。 犬である僕の日課は必ず散歩に行くこと。いつも僕を散歩に連れて行ってくれるのは幸男さんだった。 商店街を抜けて、大通りを行くとやがて大きな河原に出る。そこで幸男さんが僕を遊ばせてくれる。幸男さんが投げたボールを走ってキャッチする。こんな単純な遊びが大好きになるなんて。やっぱり僕の本質は犬なんだなあと改めて思う。運動が終わると幸男さんはいつも僕にこう言った。「なあ、ヤマト。俺はもう年だ。千尋には内緒だが、実はあまり心臓が丈夫じゃないんだ。だから俺に何かあった場合は代わりにお前が千尋の側にいて、あの子を守ってやってくれよ」そして幸男さんはいつも僕の頭を撫でるのだった。(勿論! 千尋のことは僕に任せてよ!)そう言うものの、僕の口から出てくるのはワンワンと犬の鳴き声だったのだけど、それでも幸男さんには通じたのか、嬉
「ヒヒーンッ!」いきなり僕らが乗っている馬が悲鳴を上げ、地面に倒れた。「うわっ!」「キャアッ!!」またがっていた僕たちも激しく地面に叩きつけられる。けれどもそこは草地だったお陰か、何とか二人とも無事だった。馬の脚には弓矢が刺さっている。慌てて地面に倒れている咲に声をかけた。「咲! 大丈夫だった!?」「あ……大和……うん、大丈夫」——そのとき。「貴様……よくも我が殿を殺ってくれたな……」10数人の残党兵士たちが弓や刀を構えて僕らに迫ってきた。「死ねえ!!」1人の兵士が矢を放った。「危ない!!」咄嗟に前に出たのが咲だった。ドスッ!鈍い音が聞こえ、思わず目を見開いた。「アウッ……!」咲は呻いて地面に倒れ込んだ。その胸には矢が深々と刺さっている。「さ、咲……」震えながら地面に倒れた咲に手を伸ばそうとした時。無数の矢が僕の方に向かって飛んできて、次々と腕や足、胸に矢が刺さる。痛みというよりは熱い。僕の背後は崖で下は海になっていた。矢が飛んできて刺さった衝撃で僕の身体は宙を舞い、そのまま真っ逆さまに海へと落ちて行った。ドボーンッ!!大きな水しぶきと共に、気付けば水の中にいた。海の中はとても冷たく、息が出来なくて苦しかった。本来の僕ならこの程度の海、泳げる自信はある。けれども弓矢で撃たれた身体ではとても無理だ。(咲……。ごめ……ん……)僕は冷たい海に沈んでいき……そして、死んだ——**** 次に目が覚めた時は、僕は何故か薄暗い箱の中にいた。(あれ? ここはどこだろう?)しゃべったつもりが、何故か出て来る声はキャンキャンと犬の鳴き声だ。それに何だか頭もぼんやりとしている。自分が今置かれている状況は気がかりだったが、もうどうでもいいやと思う気持ちになり、ひと眠りすることにした。 どの位眠っていたのか……僕は酷い空腹感で眼が覚めた。どうにかしてこの箱の中から出て、何か食べないと。だけど僕の身長が足りな過ぎて、どうしても出ることが出来ない。(誰か、僕をここから出して!)またしても出て来る声はキャンキャンいう鳴き声。その時だった。「え……? 犬の鳴き声?」聞き覚えのある懐かしい声が聞こえてきた。あ……この声は咲だ! 咲が生きていたんだ!僕は歓喜した。そして箱の蓋が開いて覗き込む顔は、やっぱり咲だった。(咲!